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甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏

甲斐武田氏は、清和源氏の河内源氏系甲斐源氏の本流であり、4代武田信義(源信義)は以仁王から令旨を受け取り挙兵する。当初は独立的立場を取っていたが、富士川の合戦を期に源頼朝に協力して戦功をあげ駿河守護を任ぜられる。その後、その勢力を警戒した頼朝から粛清を受け、信義は失脚し、弟や息子達の多くが死に追いやられた。信義の五男信光だけは頼朝から知遇を得て甲斐守護に任ぜられ、韮崎にて武田氏嫡流となる。信光は承久の乱でも戦功を上げ、安芸守護職に任ぜられ、安芸武田氏の祖となる。

鎌倉時代後期に後醍醐天皇が挙兵した元弘の乱では鎌倉の北条氏に従い笠置山を攻め、幕府滅亡後の1335年に北条時行らが起した中先代の乱にも参加、その後南北朝時代には安芸守護であった武田信武が足利尊氏に属して各地で戦功をあげ、石和系武田氏に代わり甲斐国守護となった。1416年に鎌倉府で関東管領の上杉氏憲(禅秀)が鎌倉公方の足利持氏に反旗を翻す(上杉禅秀の乱)と、武田信満は女婿にあたる禅秀に味方したが、京都の幕府の介入で禅秀は滅亡。信満は鎌倉府から討伐を受け、自害する。後継の甲斐守護職は、逸見氏との甲斐源氏同士の内紛の末、幕府の追及を恐れて高野山で出家した信満の弟である武田信元が任じられる。その後は鎌倉府と幕府の対立から鎌倉府に服したが、6代将軍足利義教の頃には永享の乱で鎌倉府が衰亡し、信満の子の武田信重の代に結城合戦で功績を挙げ再興のきっかけをつかんだ。

信重の復帰以降も国内の有力国人や守護代である跡部氏の専横や一族の内紛、周辺地域からの侵攻に悩まされたが、16代信昌の時には跡部氏を排斥して家臣団の統制を行い国内を安定化に向かわせるが、後継者を巡り内乱となる。

18代信虎の頃には国内はほぼ統一され、積極的に隣国である信濃国に侵攻して家勢を拡大し、武田信玄の時には大名権力により治水や金山開発など領国整備を行い、信濃に領国を拡大した。信玄は隣国の今川氏、北条氏と同盟を結んで後顧の憂いを無くして信濃侵攻を進め、北信濃地域の領有を巡って越後の上杉氏と衝突した(川中島の戦い)。今川氏が衰退した後は、同盟を破棄して駿河国へ侵攻し、東海地方に進出した。

1572年、15代将軍足利義昭の要請に応じて上洛を開始したが、その途上、信玄が病死したため武田軍は甲斐国に撤退した。最盛期には甲斐国・信濃国・駿河国及び上野国・遠江国・三河国・美濃国・飛騨国・越中国の一部の計9カ国に及ぶ120万石の領土を有したが、武田勝頼の代になると美濃に進出して領土をさらに拡大する一方、次第に家中を掌握しきれなくなり、1575年長篠の戦いに敗北、信玄時代からの重臣を失うと一挙に衰退し、1582年織田信長に攻め込まれて滅亡した(天目山の戦い)。徳川家康の計らいで最初は武田家臣の穴山信治(武田信治)に継がせ、のち自身の五男の福松丸に武田信吉と名乗らせ、家督を継がせたが、断絶した。
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信玄の次男・竜芳(海野信親)は盲目で出家していたため難を逃れ、竜芳の子の武田信道が大久保長安事件に巻き込まれて伊豆大島へ流される不幸もあったが、その子信正の代で許されて1700年に幕臣となり高家として仕えた。1915年(大正4年)、大正天皇御大典を機に信玄が従三位に叙せられた際、当時の当主武田信保に信玄に対する位記宣命が渡された。以後、この家系が信玄に最も近い正統とされ、現当主武田英信へ受け継がれて現在に至っている。信玄五男・仁科盛信の長男信基と次男信貞が徳川旗本として仕え、2系とも現在も存続している(信貞は武田に復姓している)。信玄七男の安田信清は姉婿である上杉景勝のもとへ逃れ、のちに武田姓に復して代々同家に仕えた。信玄の弟・川窪信実の子信俊は家康に旗本として仕え、これものちに武田姓に復している。

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2009年06月06日 09:18に投稿されたエントリーのページです。

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